
審判という脇役を考察 。「ミスを憎んで人を憎まず」の精神はピッチに宿るか
週末のスタジアム。満員の観衆が固唾を呑んで見守るなか、一人のストライカーが放ったシュートがゴールポストを叩く。スタンドからは溜息が漏れ、直後に「次だ、次!」という励ましの声が飛ぶ。
一方でその数分後、ペナルティエリア内での接触をめぐり、主審が笛を吹かなかったとしたらどうだろうか。スタジアムは怒号に包まれ、翌日のスポーツ紙やSNSのタイムラインは、主審の判定を“誤審”と糾弾する言葉で埋め尽くされる。
サッカーという競技において、選手のミスには慈悲深く、彼らと同じく人間である審判のミスには辛辣というダブルスタンダードはどこから来るのだろうか。本稿では、審判が置かれた理不尽な構造を紐解きながら、スポーツの現場に必要な「ミスを憎んで人を憎まず」という精神の在り方について語りたい。
どうしても許せない脇役のミス
選手は自らのプレーで価値を創造する主役であり、審判はそのプレーを判定する脇役にあたる。ファンの多くは選手の努力、背景にある物語、ピッチ上で見せる輝きにチケット代を払っているだろう。ファンにとって選手がミスをして負けることは、試合という名の物語の悲劇として許容できる。なぜなら、それは当事者たちの実力や運命の範疇にあるからだ。
ところが、審判による誤審は違う。それは物語の外側にいるはずのインフラが、物語の結末を書き換えてしまうような感覚を抱かせる。主役たちが心血を注いで積み上げた90分間の努力が、たった一つの笛、あるいは吹かれなかった笛によって無に帰す。このとき、ファンや選手が感じるのは敗北の悔しさではなく、公正さが奪われたことへの憤りである。
審判は本来、透明な存在であることが理想とされる。試合が円滑に進んでいるとき、観客は審判の存在を忘れている。しかし、ひとたびミスが起きれば、透明だった存在は突如として“悪目立ちする邪魔者”へと変貌する。この主役の邪魔をしたという見られ方こそが、審判に対するバッシングが苛烈を極める最大の要因だ。
審判員を蝕む減点方式
審判という職業の特殊性は、その評価体系が徹底した減点方式であることに集約される。
ストライカーは、10回の決定機のうち9回外しても、後半アディショナルタイムに決勝ゴールを挙げれば英雄となる。失敗を上書きする加点のチャンスが、常に用意されているのだ。
この一方で、審判には加点が存在しない。100回の判定のうち99回が完璧であっても、残りの1回で勝敗に直結する誤審を犯せば、その試合の評価は落第となる。
正解を導き出して当たり前というゼロ地点からスタートし、ミスをするたびにマイナスへと沈んでいく。成功しても称賛されず、ひとつでも失敗すれば世界中から糾弾される。この職責は大抵の人にとって過酷なものだ。我々は審判を、感情を持った人間としてではなく、ルールを執行する精密機械として扱ってしまってはいないだろうか。
機械が故障すれば修理や廃棄が求められるのと同じように、審判のミスに対して「二度とピッチに立つな」という極論が飛び交う背景には、彼らから人間性を剥ぎ取った冷徹な視線が存在する。
テクノロジーが加速させた完璧主義
VAR(ビデオ・アシスタントレフェリー)制度の導入は、サッカー界に公平性や正確さをもたらすはずだった。確かに、ミスジャッジが見落とされるケースは減ったかもしれない。ただ、テクノロジーの進化は皮肉にも、審判に対する寛容さを低下させる事態も招いた。
リプレイ映像は、審判がコンマ数秒の間に肉眼で捉えなければならなかった正解を、残酷な形で白日の下に晒す。映像を見ている視聴者は、「なぜこれが見えないのか」と憤る。激しい運動による心拍数の上昇や、数万人からのプレッシャーに晒されながら審判員が判定を下している事実を忘れて。
テクノロジーの進化によって正解が可視化されるようになり、誤審は不可抗力ではなく、審判員の能力不足や陰謀であるかのように語られるようになった。デジタルな正解が存在する時代において、アナログな人間の感覚が入り込む余地は、これまで以上に狭められている。
スポーツの本来あるべき姿とは
ここで我々は立ち止まる必要がある。スポーツとは本来、人間が自身の限界に挑む姿を応援するものではなかったか。選手のミスが人間らしさであるならば、審判のミスもまた、人間らしさの表れではないだろうか。
「ミスを憎んで人を憎まず」。この言葉は綺麗事ではない。主役も脇役も、共に不完全な人間。この不完全さを抱えたまま、お互いに最高の瞬間を目指して走り続ける。だからこそ、この精神がスポーツの健全性を保つために必要なのだ。
判定そのものに対して「あれは間違いだった」と語ることや、「このルール運用は改善すべきだ」と批判することは、サッカーという競技の発展に繋がる。しかし、矛先が審判員の人格や性別、存在そのものに向けられたとき、それは誹謗中傷となってしまう。サッカーに関わる全ての人が憎むべきはミスジャッジをした審判員ではなく、批判と誹謗中傷の区別がつかない人たちだ。
ミスをひとつ犯しただけでSNSで実名や顔を晒され、罵詈雑言を浴びせられる。そのような環境で、誰が審判員を目指そうと思うだろうか。審判を憎しみの対象として扱い続けることは、巡り巡ってサッカーという競技の消滅へ繋がるという理(ことわり)を、我々は理解しなければならない。
写真:イメージマート
