「なぜその判定に至ったのか」が見えない日本サッカー界。Jリーグ担当審判員への不信感はどこから生まれるのか。

Jリーグで判定を巡る議論が起こるたび、SNSには怒号のような審判批判が溢れる。

Jリーグ担当審判員への不信感はどこから生まれ、どのように増幅されるのか。

ここでは日本サッカー界の構造に触れながら、この点について考察したい。

届かない現役審判員の声

ビデオ・アシスタントレフェリー(VAR)制度導入により、判定の正確さは高まっただろう。ただ、だからと言って一般人による審判員への不信感やストレスが軽減されたわけではない。むしろ、SNS上では以前にも増して審判批判が繰り広げられているようにも見える。それはなぜか。

判定に至る思考過程が、その試合を担当した審判員によって語られる機会が少ないからだと、筆者は考える。

たとえば、ある接触プレーがPKになったとする。サポーターが知りたいのは、“PKかそうでないか”という結果だけではない。

主審はその瞬間に何を見ていたのか。どの角度から見えたのか。どの部分をファウルもしくはノーファウルと判断したのか。ビデオ・アシスタントレフェリーは何を確認したのか。オンフィールドレビューを進言した、もしくはしなかった理由は何か。

そして、その試合の担当審判員が当該事象を試合後に振り返り、何を感じたのか。今後に向け改善できる部分は何か。これらが現役審判員の口から語られたり、個別の事象について我々ジャーナリストが彼らへタイムリーに質問できる機会が、今の日本サッカー界にはほぼ無い。

確かに、日本サッカー協会(JFA)はレフェリーブリーフィングを実施している。JFA審判委員会が、Jリーグのあらゆる事象に関する説明を行っており、これはひと昔前と比べれば前進だろう。

ただ、そこで語られるのは主に競技規則上の整理である。「競技規則ではこう解釈される」「現行のVAR介入基準ではこうなる」「接触の強度はこのように評価された」といった具合だ。

競技規則の理解を深めるうえで、審判委員会の説明には価値がある。

だが、多くの人が知りたいのは、もっと“人間的な部分”であり、その試合を担当した審判員の言い分ではないだろうか。

当該審判員が、その瞬間に何を感じたのか。なぜそのプレーをそう認識したのか。試合後、自らの判定をどう振り返ったのか。

現在のレフェリーブリーフィングでは、当該審判員本人が前面に出て語る機会はほとんど存在しない。説明主体は、あくまで審判委員会だ。

すると、どうなるか。サポーターからすれば現場の声が聞こえない。この結果、「審判委員会が後から正当化しているだけではないか」「身内で庇っているのではないか」「結局、本音は何も出てこない」という感情が一般人に芽生えてしまう。

審判員を誹謗中傷や人身攻撃、暴力事件から守る必要はある。これは軽視してはならない。

残念ながら、審判員への誹謗中傷は未だにSNSに投稿されており、審判員が試合後会見に臨むような仕組みを導入すれば、日本サッカー界に蔓延する空気を考えたとき、吊し上げに近い状態になる危険性もある。

しかし一方で、日本サッカー界に蔓延る過度な秘匿も問題であるように筆者は感じる。

誰が、何を見て、どう考え、なぜそう判断したのか。その試合を担当した審判員の“人間的プロセス”が見えないまま、判定結果だけがSNS上で切り取られ続ける。これは現役審判員にとっても不幸な構造ではないだろうか。

「判定が人気クラブ寄りなのではないか」「忖度があるのではないか」「基準がブレているのではないか」。このように、人間には説明されない空白を“悪感情”で埋め始める習性がある。

視界の遮蔽や認知限界、プレー速度、角度といった“人間的制約”によって起きた判定ミスであっても、当該審判員によってそれらが語られなければ、人々は陰謀や恣意性を想像するようになる。

競技規則や現役審判員の苦悩を学んだことで、私のなかで審判員への不満は減った。現役審判員へのロングインタビューにも携わり、「なぜそう見えるのか」を想像できるようになったからだ。

判定への不満そのものをゼロにはできない。

だが、「その試合を受け持った審判員が何を見て、何を考え、なぜその判定に至ったのか」というプロセスが彼らから直接語られ、今より可視化されれば、不信感の一部は変わってくるはずだ。

審判員を“絶対に間違えてはならない存在”として神格化するのではなく、「判断し、悩み、ときに誤認する人間」として社会に見せること。それこそが、長期的には日本サッカー界におけるレフェリングへの信頼回復に繋がるのではないか。

写真:イメージマート
文/今﨑 新也

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