「相手の幸せ」という物差しの危うさ。サッカー界のパワハラ議論における前提の履き違え

昨今、サッカー界をはじめとするスポーツ界においてハラスメント撲滅への動きが加速している。かつては美談として語られた鉄拳制裁や過度な“シゴキ”が、現代社会において許されざる行為であることは、もはや議論の余地がない。スポーツ界は社会の変化に呼応し、時には社会をリードする形で差別問題やガバナンス改革に取り組んできた。

ただ、パワーハラスメント疑惑への対応に関しては、現場と理念の間で大きな軋みが生じているように見える。

一部では、「法的な白黒をつけるやり方は、前提の履き違えである」という主張が聞かれる。曰く、法律は最低限の道徳に過ぎず、スポーツ界はもっと高潔な基準を持つべきだと。そして、パワーハラスメントか否かの判断基準として、「その行為が相手の幸せにつながるのか」という情緒的な問いが投げかけられることがある。

「相手の幸せ」という言葉は、非常に耳心地が良い。選手の人間性を尊重し、暴力や暴言を排除する姿勢として誰もが賛同したくなる響きを持っている。

だが、この情緒的な基準をスポーツ界、それも勝利を至上命題とするプロフェッショナル且つシリアスな勝負の場に持ち込んだ瞬間、現場は大きな矛盾に直面することになる。

私はあえて言いたい。パワーハラスメント疑惑について法的判断に頼ることを毛嫌いし、「相手の幸せ」という主観的な基準に逃げることこそが、前提の履き違えではないか。

勝利と個人の幸せの対立

「相手の幸せ」が、なぜ判定基準になり得ないのか。理由はシンプルだ。競技スポーツにおいてチームが追求する勝利と、個々の選手が感じる幸せが必ずしもイコールではないからだ。むしろ、短期的には対立することのほうが多い。

プロサッカークラブ指導者の最大の職責は何か。それはチームを勝たせることであり、そのために選手個々の能力を極限まで引き上げることだ。そのプロセスにおいて、指導者は非情な決断を迫られる。

コンディションが上がらない選手をメンバーから外す。戦術理解度の低い選手に対し、反復練習や別メニューを課す。試合中緩慢なプレーをした選手に対し、即座に厳しい口調で修正を命じたり、ときには交代させたりする。

これらの一つひとつは、受け手である選手からすれば、決して幸せな体験ではないだろう。試合に出られない苦しみ、厳しい練習による肉体的もしくは精神的な辛さ、公衆の面前で叱責される羞恥心。もし、「相手の幸せにつながっていない」ことがハラスメントの認定要件になるのであれば、これらすべての指導行為が“クロ”になりかねない。

監督が「君のためを思って」とメンバー落ちを通告したとしても、選手が「試合に出られないなら、私は不幸せだ。この監督の判断は私の幸福追求権を侵害している」と主張すれば、それはハラスメントとして成立してしまうのだろうか。そのような基準がまかり通れば、指導者は選手のご機嫌をうかがうだけの接待係に成り下がり、チームの強化など到底不可能になる。

法こそが現場の共通言語

ここで必要となるのが法的判断、すなわち客観的な基準である。

スポーツ界にはびこるハラスメント、特に指導の名を借りた暴力や人格否定を排除するためには、曖昧な道徳論ではなく、冷徹なまでの論理的線引きが不可欠だ。

その線引きの基準となるのが、「その言動に、勝利や成長のための論理的必然性があるか」という一点である。

たとえば、危険なタックルをした選手に対し、監督が怒鳴り声を上げて静止させたとする。受け手は「怖かった」「傷ついた」と感じるかもしれない。しかし、客観的に見ればそれは選手の安全を守り、退場処分によるチームの不利益を防ぐための緊急避難的な措置であり、指導としての論理的必然性が認められる。

一方で、ミスをした選手に対して「お前は生きている価値がない」「親の顔が見たい」「死ね」「殺すぞ」といった言葉を浴びせるのはどうだろうか。これらはサッカーの技術向上とも、戦術的な修正とも何ら関係がない。単なる指導者の感情の爆発であり、支配欲の露呈に過ぎない。ここには論理的必然性が存在しないため、法的観点とスポーツ的観点の両面から、明確にアウトと判定できる。

このように、論理的必然性という客観的なフィルターを通すことで初めて、私たちは厳しい指導とハラスメントを区別できる。法的な思考プロセスとは、決して血の通わない冷たいものではない。むしろ、感情論に流されやすい現場に、公平な秩序をもたらすための共通言語なのである。

冤罪を防ぎ、指導者を守るための“白黒”

法的な白黒をつけることの重要性は、被害者を守るためだけにあるのではない。それは同時に、まっとうな指導者を不当な告発から守るための盾ともなる。

近年指導者の悩みの種になっているのが、選手や保護者による“逆ハラスメント”とも呼ぶべき事象だ。気に入らない起用法や厳しい指導に対する不満を、「ハラスメントを受けた」という言葉に変換して指導者を攻撃するケースはプロ・アマチュアを問わず想定できるうえ、これに近い事例を筆者も見聞きしている。

こうしたケースで、もし判定基準が「受け手の主観(幸せ)」に委ねられていれば、指導者は反論の余地を失う。「相手が傷ついたと言っているのだから、お前が悪い」という理屈が成立してしまうからだ。これでは情熱を持って指導にあたる人間ほど、リスクを恐れて萎縮し、現場を去っていくことになりかねない。

しかし、そこに法的・客観的な基準があれば、指導者は胸を張って主張できる。「私の指導は厳しかったかもしれないが、人格を否定するものではなく、社会通念上許容される範囲内であった」と。

この“抗弁権”を保証することこそが、健全なスポーツ環境を維持するための要諦である。愛や幸せという曖昧な言葉で包み込むことは、一見優しそうに見えて、実は誰も守れない態度と言えるのではないか。

真の高潔さとは何か

冒頭の「前提の履き違え」という指摘に戻ろう。

確かにこれまでのスポーツ界の一部には、法的な定義の狭間に逃げ込み、陰湿ないじめや排除の論理を正当化してきた歴史があるかもしれない。だからこそ、「法に触れていなければ何でもあり」という態度に多くの人が不快感を露わにするのは理解できる。

しかし、だからといって法という枠組みを無視して心で裁こうというのは、振り子が逆にふれただけの極論に過ぎない。真の解決策は法的な思考を放棄することではなく、スポーツの特性に即した、より精緻なガイドラインを構築することにあるはずだ。

一般社会のパワーハラスメント防止法をそのまま適用するのではなく、スポーツにおける指導の正当性とは何かを明文化する。どこまでが許容される負荷で、どこからが人権侵害なのか。そのラインを、過去の判例やスポーツ医科学の知見に基づいて具体的に設定し、すべての関係者に周知する。

「相手の幸せ」という、測定不可能で移ろいやすいものを基準にするのではなく、誰の目にも明らかなルールを作る。そして、そのルールを破った者には、実績や立場に関わらず厳格にペナルティを科す。それこそが、サッカー界が目指すべき高潔さの正体ではないだろうか。

サッカーという競技自体にもルールがある。オフサイドラインが数センチ単位で厳格に判定されるからこそ、私たちはその攻防に熱狂できる。ピッチ上の判定にはビデオ・アシスタントレフェリー制度を導入してまで客観性を追求しているサッカー界が、指導の現場においてだけ「お気持ち判定」を導入しようとするのは、あまりにも皮肉な矛盾である。

指導者の情熱がハラスメントと誤解されず、選手の甘えが権利と錯覚されない世界。そのためには温かな情緒ではなく、冷徹なまでの論理が必要だ。

前提の履き違えを正すには、すべての議論を白紙に戻し、一番下の基礎から積み直すしかない。その基礎こそが、論理的必然性に基づいた客観的な判定基準だ。

写真:イメージマート

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